事の起こりはケニ屋さんのコメント

nakamurakaname自分が中村先生のことで一番興味があるのが、1930年の中村彗星の発見です。星を見始めたころはカタログに掲載されていましたが、追跡観測もなく、その実在が疑問視され現在ではカタログから外されています。本当に何かの見間違いだったのでしょうか?紹介された記事を読む限りでは、これだけの見識ある方が何かを見間違えるとは考えにくいのです。そこで思い当たるのが、地球に極めて接近した彗星ではないか?ということです。これは本田先生や関勉さんも目撃されていらっしゃるようですが、このような天体でしたら当時の情報網では追跡が難しかったと考えられます。SOHO彗星を見ていても、相当数の氷の塊が宇宙空間を漂っていることが伺えます。たかだか2~3mの岩塊ですら発見追跡される現代では、中村彗星も間違いなく追跡観測できたと思います。若いころは中村先生の見間違いだったのではないか?と勝手に解釈していましたが、多くの情報が入る現代になり、自分の考えが浅はかであったことを思い知らされた気分です。

でした。当方寡聞にしてこの事実を知らず、真実を知りたいと思ったものの、調べるスキルもなく、安易に「とある彗星に関して只者ではない方」に伺ったところ詳しいコメントをいただきましたので、その方の許可を得て、一部改変したうえでお送りします。以下、赤字になっている部分は、わたくしシベットのすっとぼけた返し、です(笑)

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気になったので調べてみました。

発見は正式な情報として、IAUCに出ていました。
1930 Nov. 13に13.5等で発見。位置観測は1つだけでモーションと暫定軌道が掲載されています。
IAUCの発行は発見から7日後。1930fの仮符号は1930gに訂正。
Dec. 5のファン・ビースブルック氏(米国)の観測では見つからず。

http://cbat.eps.harvard.edu/IAUCs/IAUC0304.jpg
http://cbat.eps.harvard.edu/IAUCs/IAUC0305.jpg
http://cbat.eps.harvard.edu/IAUCs/IAUC0306.jpg
http://cbat.eps.harvard.edu/IAUCs/IAUC0307b.jpg
山本一清氏の追悼記事(422ページ)によると、発見から2週間ほど撮影していたとのことで、軌道は、
追跡には十分な精度があったと推測します。
11月20日ごろ中央局へ報告したとあるので、それによりIAUCが発行されたようです。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/162293/1/tnk000140_416.pdf
その後中村氏は再測定して軌道を再計算、花山ブレテン第211号に発表。
クロムメリン氏(英国)が1930gを王立天文学会月報で正式登録を報じた、とあります。
IAU(米国)で発行された彗星カタログ1986年版には掲載されていません。
近日点通過は1930年8月で発見の時点では約3ヶ月経過、近日点距離は0.2AUで小さいことから
減光して捉えられなかったのかもしれません。

王立天文学会月報(Monthly Notices of the Royal Astronomical Society)の1932年2月号
308ページに掲載されていました。
https://academic.oup.com/mnras/article-pdf/92/4/307/2902857/mnras92-0307.pdf

丁寧に検証していたため報告が遅れ、彗星が減光して誰も追観測できなかった、けれども本人の写真検証・軌道計算の提出によりでいったんは認められたが、その後理由はわからないけど抹消されている、ということでしょうか。周期彗星でなかったら回帰はしてこないし、事実はもう確かめようがない感じでしょうかね。

彗星として扱われるためには、天文電報中央局が認定する必要があるので、一旦正式に認められたわけではなさそうです。
(現代より情報伝達がずっと遅い点を踏まえると)王立天文学会が独自に残した記録を正式に扱う向きがあったのかもしれません。

中村要氏がその後の検証結果を天文電報中央局に報告したかどうか分かりませんが、軌道の精度がアップしても、現代のような全天サーベイは行われておらず、過去のプレートから見つかって発見が認められることはなかったでしょう。

王立天文学会は単なる独自記録にしかすぎなく、天文電報中央局の認定がないと公式には彗星として認められないんですね。ということは、中村彗星(1930)はもともと記録上存在しなかった、ということになりますか。近日点以降発見できなかったということは、減光した彗星が月明りにまぎれてしまった、以外にも太陽重力で引き裂かれて崩壊、という線もありますでしょうか? 今みたいにリアルタイムで崩壊の模様を観測できず、単に行方不明で終わったとか?

ブログのコメントにある「星を見始めたころのカタログ」とは何かですね。王立天文学会月報がカタログと呼ばれていたかどうかは分かりません。
「現在ではカタログから外されている」と続けられているので、同じカタログでは?
彗星カタログと言えば、マースデン氏による「Catalogue of Cometary Orbits」を指すのですが、初版は(1930年のロストからずいぶん経過した)1983年なので、これではなさそうです。
王立天文学会月報に掲載されていた彗星が、彗星カタログに載らなかったという解釈は、違う気がします。カタログの名称と発行年は確認した方がよさそうです。

近日点通過に起因して、分裂や崩壊といったドラスティックな現象が生じた場合は、程なく急減光するはずなので、3ヶ月後まで存在して2週間に渡って観測できた点と矛盾します。
軌道要素から動きと光度を確認してみると、1930年9月上旬に明け方の空に現れて(6等級)、9月下旬にはふたご座で木星・火星が接近した傍を通過(9等級)。西進して11月中旬におうし座で発見(13等級)に至ります。
12月上旬には、14等級まで暗くなり、観測は難しくなったと推測します。
月明りを除くと、明け方から真夜中の空で好条件だったのですが、系統的な彗星捜索が行われておらず見つからなかったのかもしれません。

慎重に報告したため発見の公表が遅くなり減光して見失った、がここまで調べた結果からもっとも自然な解釈ですが、軌道が出ているのに誰も観測を試みなかった点は謎です。、

***(「とある方」にこの場を借りてお礼を申し上げます!)

いかがだったでしょうか、素人に噛んで含めるような丁寧な表現と、シベットの素人丸出しの対話がほのぼのとした雰囲気を醸し出しています(笑)。

しかし、もし「中村彗星」が周期彗星だったとして回帰したのを再発見・同定できると、非常にロマンのある話となりますね!

中村彗星の謎を解明するのはあなただ!