「天界」第104号(第十巻)昭和4年11月に掲載された中村要師の「鏡製作について」を紹介いたします。今回の内容は師が生前300面ほど磨いたと言われる反射鏡の製作についてですが、多少の技術的な部分も含みながら、鏡の製作や使用に対する思想と言いますか、信念のようなものが色濃く感じられる内容となっております。それでは、どうぞ!
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反射望遠鏡の知識(17)
鏡を作る方に
同じように凹面鏡を作るといっても、望遠鏡を持っていないものが望遠鏡を持つために作るとか、あるいは更に進んで道楽半分に作るという素人の場合と、営業的な製造の場合には著しく条件の異なったものである。最初の場合には望遠鋭製作等の経験の無い人が着手する事が多いために、叉凹面鏡製作はだれが行ってもやすやすとはできるものでないから困難な方法である。
おおよそ、相当の熱心を持って事に当り得る人で、手の使える人なれば、その人の片手でつかむ事のできる大きさの鏡なれば、誰でも鏡は磨けるものである。しかし、それでも良いものができるとは限ってない。エリソン曰く
「ただひとつの完全の鏡を作れる人なれば沢山あるが、何れの鏡も間違いなく完全にできる人は稀であって、自分はわずか二人しか知らない。初心のものが鏡を作る時には、まず見えるものを作って、でき得れば改良する事に努めればよい。
しばしばあるように、最初から専門家と同じようなものを製作しようとしたり、あるいはかなりできた鏡でありながら、全く星を覗かないで暗室内の理屈ばかり述べている人が少なくない。鏡を作るなら本来の目的を忘れないように心掛けねばならない。素人は素人らしくすればよい。
第二の場合には、作る人の立場によって道楽という程度に差があるが、いわゆる下手で固まらないように心掛け、ことに他者の鏡について種々の点を学ばねばならぬ。鏡を作るのに、多少でも不純な動機があったり注意が散漫するような事では良いものができない。最終の整形をしている時に、不愉快な事があったり、あるいは作業を眺めている人があってさえ、その整形は九割までは失敗に終るものである。
最後の営業的な場合には、筆者は素人だから全く経験はない。本当に良いレンズや凹面鏡を作れる人は稀なものである、これは、大低の熟練家が一代限りであるのでも分かる事である。一般に、小規模の工場で家庭工業的なものが、比較的精良なものを作っているが、これに反し、工業的な大工場では仕事があまりに分業になり過ぎて職工任せになる結果、その設備を利用してかなり良いものは作っているが、どことなしに垢抜けのしてない事も多い、
光学面の完全さは何よりも望遠鏡の能力に関係するので、多少年月を経たなれば、不完全なものは自然消滅の途をたどるし、良いものは世間の信用が、価値を定めてくれる。筆者は最近に有名なウィス鏡の26センチのものを手人したが、50年前のもでも信用のあるウィスの鏡だけに確かに良いものであった。
研磨の状態は傷と同じようによく磨けている程良い。メッキ鏡では砂目すなわち磨けてない金剛砂の穴は非常に目立つものであるが、ガラス面のまま散光の下でよく磨けたように見えるもので実用上良い。しかし外観上良く磨けているように見えても、60分の金剛砂の穴はとれているが、すり足らなかった20分金剛砂の穴が沢山残っているものもあるが、これは作った人の不注意である。同じような原因で荒い砂の穴が点在している事も少なくない。紅柄でできる傷はかなり多いものである。キラキラ光る長い傷はたいてい荒い紅柄でできたものであって、メッキして始めて現れる無数の細かな傷Sleekは同じく、充分に細かくない紅柄によるものである、放物線鏡の修正には最終まで新しい紅柄を使わねばならぬので、レンズに比し傷のできる機会も多いし、一般に避け難い。
研磨の種々な原因が、ガラス面の光沢を定める。ガラス面の光沢は筆者は深い事は知らないが、なかなか研磨技術上の技巧を要するものであって。同じように磨けていても光沢には差が多い。光沢は紅殻の細かさ及び使用方法によるが、レンズ会社の系統を引いた所で作るものは一般に光沢がよく、素人系統のものでは光沢が悪いものである。筆者の知っている鏡ではスレ一ド氏の鏡が最も美しい。美しく磨くための労力、及び技巧は使う人には充分理解してもらえ難いものである。
金剛砂とカーボラングムの砂穴はかなり差がある。前者は穴が丸く浅いが、後者では不規則な形で深い。カーボランダムで仕上げたものでは美しく磨けたように見えていてもなかなか穴の底がとれず、金剛砂と同じように磨くには数倍の労力を要するものである。作業の始めにカーボランダムを使うのは著しく労力を節約するが、仕上げの最後は粒が粗くても、粒の揃った金剛砂に限る。最後がカーボランダムではよほどの労力を費やさない限り、金剛砂のものより光沢が悪い。
例えば真面目な書家が書いた絵を、下手だからといっても他者が全然修正してしまったら、その人は気持の良い事ではあるまい。もし左様な修正をする暇があったら新しいものを作った方がましである、ただしこれも、責めればよい営業家の作った与太ものは例外である。
鏡は元来暗室内の試験道具や、見て楽しむ骨董品でもない。覗きもしない鏡を幾つ作ってもそれはあまり有益な事ではない、実際観測に使って始めてその価値がある。“美しい星を美しく見るために、良い鏡を作る”のが何人にも最も良い方法であると信ずる。完成した鏡を手離すには、作業者は、自分で作れる最艮である事は確信しなければならぬ。しかしそれが、それ以上改良の余地の無いものと信じてはならぬ。玄人と素人の区別ははっきりしておかねばならぬ。鏡を完成した時にはスレードがある鏡の裏面に記した如く、
For light, power, & definition this glass, bears no rival.
という位の確信はあってほしい。Lightは面の美しい研磨を意味し、後の二語は鏡形の完全を意味する。
筆者は1925年最初の満足する鏡を作るまでに約三年を準備に費やした。鏡を沢山作るようになったのも、自分の鏡をというのではなく、ただ反射望遠鏡をいかによく使うかという事にあり、一般の素人諸氏と多少異なった立場にあったので、比較的あせらなかったように思う。
沢山に作った鏡を追憶して見ると、むしろ心苦しい程失敗が多い。自分の忍耐の足りないために何時も不満足な努力の足りないものばかり作っていた。しかし幸い、表面修正ができなかったという事もなく、手をつけたもの全部を洩れなく手離す事はできた。鏡を作るのに種々の方法は講じてみた。しかし結局方法を複雑にするよりも簡単にする方がよい事も知ったのである。
周到なる準備をもって着手し、最短の時間に、最小の労力をもって、短いわずかの整形によって作った鏡が最も良い。なぜかなれば製作の方法の原理は、最も簡軍な自然法則に過ぎないものである。
光学表面のできるのは大部分、自動作用であるから、複維な方法をとらねばならないなれば、それは方法が悪いのである。
自分が反射鏡に深く関係するようになったのは英国のエリソン氏に現在も使用している165ミリ鏡を作って頂いたのが動機であるし、自分の作業の大部分の方針はエリソン氏によっているのである。同氏がThe Amateur’s telescopeを書いたのは約70個の鏡を作ってから書いたとの事であるので、自分もやはりこの時期から書き始めた。この章を終る今には、いつの間にやら自分の作った正規番号のNKM号(Nakamura’s Mirrorの略)が140個近くなってしまった。筆者は作る事よりも、使う方が本職でもあるし、製作法を扱うにも眼視鏡を目標として来たつもりである。しばらくの間であったが自分の特殊な立場からむしろ小さな、労力は少いが最もやりにくい小口径の長焦点のものばかり作ったのである。鏡の面もある程度まで進んだように思うが、自分の気短じかな粗暴な性質のために今では行詰ったように思っている。しかし100号以後ガラス面の研磨光沢について多少得る所があったようである。やればやるだけ、難しくなってしまったが今後今までに得た知識や、最近研磨器によって大口径製作準備のために数十面磨いて得た経験等から大口径の反射鏡や、対物レンズ等の専門的な天文研究に必要な応用方面に進みたいと思っている。鏡も五個作ればどうやら物になるものができ、二十個作れば多少自信が得られ、五十個作れば整形に大した苦労もせず、百個作ればどうやら粒が揃ってくるようであるが、作るものの性分は一生鏡の面や傷につきまとうらしい。
今まで筆者のとった重要な方針の一つは比較的小さな反射望遠鏡の普及にあったのであるが、これは確かに普及した、比較的若い熱心家が多くてしかも外人に比し身長の短い人が多い日本内地では、10ないし13センチの小口径のものがよかろうと思ったのであるが、小さいだけ安いので作り得る人も、求め得る人も割合が多くなったし、二三年前まで誰も問題にしなかつた8センチ程度のものさえ今ではほしい人がたくさんにできて来た。さて
自分の作った8ないし13センチのものでは、持った人から見える程度について直接不足は聞かず、これに反して15センチ以上のものを持った人は割合に不熱心な人が多い。大き過ぎて困るから小さなものと換えたいという希望の人が稀らしくない。反射望遠鏡の、普及しつつある幼年期にある日本内地では小さなものから進むのが順序のようであるし、自分にとっても、大きなものよりも良いものが作りにくい小口径のものの方が自分の作業の演練上有用であった。自分には今でも、10センチ以上のものよりも7ないし9センチの小さな鏡の方がはるかに鬼門であって、小口径鏡の最後の真に間髪を争う仕事や、その結果を確かめる星像を見る事は自分にとって平凡な15センチ級のものより面白い。
反射鏡に関する章は主として、ページ数の制限と筆者の無知のために、充分なものではなかったが、一通り自分の考は述べた。今までやかましい事を書いた所もあるが、筆者がそのように作れるというのではなく、ただ自分の失敗の跡や、あるいは現に犯しつつある所を参考までに並べたのである。自作鏡が?個になるまでに何年かかるかも知れないが、その時には考えも変わる事であろうから、それまで凹面鏡に関したかような記事はなるべく遠慮したい。
反射鏡製作に関する基本的な事は未だ書足りない事もありますがひとまず打切って、数か月後から再開致します。この記事は程度並びに範囲について欧米にも例の無いものでありますが、幸いかなり多数の別刷がとってありますから本文十七回及び他の二回分と合計十九回分を、一まとめに御頒ち致します。
約170頁 一組一円六十八銭(内送料十八銭)

(磨き作業中の15㎝反射鏡 シベット作)
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反射望遠鏡の知識(17)
京都帝大天文台 中村 要
鏡製作について
鏡を作る方に
同じように凹面鏡を作るといっても、望遠鏡を持っていないものが望遠鏡を持つために作るとか、あるいは更に進んで道楽半分に作るという素人の場合と、営業的な製造の場合には著しく条件の異なったものである。最初の場合には望遠鋭製作等の経験の無い人が着手する事が多いために、叉凹面鏡製作はだれが行ってもやすやすとはできるものでないから困難な方法である。
おおよそ、相当の熱心を持って事に当り得る人で、手の使える人なれば、その人の片手でつかむ事のできる大きさの鏡なれば、誰でも鏡は磨けるものである。しかし、それでも良いものができるとは限ってない。エリソン曰く
「ただひとつの完全の鏡を作れる人なれば沢山あるが、何れの鏡も間違いなく完全にできる人は稀であって、自分はわずか二人しか知らない。初心のものが鏡を作る時には、まず見えるものを作って、でき得れば改良する事に努めればよい。
しばしばあるように、最初から専門家と同じようなものを製作しようとしたり、あるいはかなりできた鏡でありながら、全く星を覗かないで暗室内の理屈ばかり述べている人が少なくない。鏡を作るなら本来の目的を忘れないように心掛けねばならない。素人は素人らしくすればよい。
第二の場合には、作る人の立場によって道楽という程度に差があるが、いわゆる下手で固まらないように心掛け、ことに他者の鏡について種々の点を学ばねばならぬ。鏡を作るのに、多少でも不純な動機があったり注意が散漫するような事では良いものができない。最終の整形をしている時に、不愉快な事があったり、あるいは作業を眺めている人があってさえ、その整形は九割までは失敗に終るものである。
最後の営業的な場合には、筆者は素人だから全く経験はない。本当に良いレンズや凹面鏡を作れる人は稀なものである、これは、大低の熟練家が一代限りであるのでも分かる事である。一般に、小規模の工場で家庭工業的なものが、比較的精良なものを作っているが、これに反し、工業的な大工場では仕事があまりに分業になり過ぎて職工任せになる結果、その設備を利用してかなり良いものは作っているが、どことなしに垢抜けのしてない事も多い、
光学面の完全さは何よりも望遠鏡の能力に関係するので、多少年月を経たなれば、不完全なものは自然消滅の途をたどるし、良いものは世間の信用が、価値を定めてくれる。筆者は最近に有名なウィス鏡の26センチのものを手人したが、50年前のもでも信用のあるウィスの鏡だけに確かに良いものであった。
鏡の要件
鏡の外観、すなわちガラス材の様子は、実野上あまり影響がないものであるが、鏡を持っている人にとっては、美しいガラス材程、気持ちがよい。周囲が乱雑にすってあったり、あるいはガラスが薄かったなれば、誰の目にも安つぼく見え、商品にされた時には価格も安いものである。ガラスの加工は作る人によって主義主張もあるが、少なくとも円くて、誰にも相当に加工してあると認められる位のものであってほしい。どれだけ表面がよくても、ガラス材が粗維では価値が認められがたい。
ガラスの研磨面の傷は、素人の鏡には比較的多いものである。大きな表面で、金剛砂の傷を全くなくするにはよほどの注意を要するものである。金剛砂の選択、分離、使用法等慎重なる注意を要するものである。例え傷無しに磨けても、加工後、種々の原因で傷ができるものであるが、傷はその外観によって、その発生原因が知れる。金剛砂でできた傷なれば、鏡の端から入り込んでいるものでは、通常直線状であるし、中間にできたものでは通常、研磨運動の軌跡を書いている。金剛砂の傷はフーコー試験で見れば傷の両側が、よけいに磨けているし、点線の続いたように半磨きになっている事も多い。研磨後できた傷は連続的に白く切れているか、あるいは鉄釘等でひっかいたようなものでは狭く深く切れている。研磨時の不潔によるものや、あるいは打痕等は、各々区別ができる。傷は無いのに超した事もないが、二三本あっても苦情を申立てる程の事でもない。傷はその表面積(通常鏡面の千分のー以下)だけの光を損失せしめるのと、その存在のために散光を増して、明るい星の周りに光を散らすのみであってその影響は後者の方が恐ろしい。熟練者の鏡、必らずしも傷のないものではない。カルヴーのものはかなり多いし、エリソンのものも多い、傷は作る人の不注意によるものであるが、あるいる程度まで国民性やことに作業者の個性の現われるものである。傷を非常に苦にする人もあるし、一向無関心の人も少なくない。筆者の鏡も近頃は平均数本位であるが、前はかなり多かったし、以前に作った鏡の傷の形状まで今でも脳裡に残っていて、いつも心苦しい、もし諸君が傷一本も無しに磨いた美しい鏡を持ったら、作った人に充分感謝してよい、研磨の状態は傷と同じようによく磨けている程良い。メッキ鏡では砂目すなわち磨けてない金剛砂の穴は非常に目立つものであるが、ガラス面のまま散光の下でよく磨けたように見えるもので実用上良い。しかし外観上良く磨けているように見えても、60分の金剛砂の穴はとれているが、すり足らなかった20分金剛砂の穴が沢山残っているものもあるが、これは作った人の不注意である。同じような原因で荒い砂の穴が点在している事も少なくない。紅柄でできる傷はかなり多いものである。キラキラ光る長い傷はたいてい荒い紅柄でできたものであって、メッキして始めて現れる無数の細かな傷Sleekは同じく、充分に細かくない紅柄によるものである、放物線鏡の修正には最終まで新しい紅柄を使わねばならぬので、レンズに比し傷のできる機会も多いし、一般に避け難い。
研磨の種々な原因が、ガラス面の光沢を定める。ガラス面の光沢は筆者は深い事は知らないが、なかなか研磨技術上の技巧を要するものであって。同じように磨けていても光沢には差が多い。光沢は紅殻の細かさ及び使用方法によるが、レンズ会社の系統を引いた所で作るものは一般に光沢がよく、素人系統のものでは光沢が悪いものである。筆者の知っている鏡ではスレ一ド氏の鏡が最も美しい。美しく磨くための労力、及び技巧は使う人には充分理解してもらえ難いものである。
金剛砂とカーボラングムの砂穴はかなり差がある。前者は穴が丸く浅いが、後者では不規則な形で深い。カーボランダムで仕上げたものでは美しく磨けたように見えていてもなかなか穴の底がとれず、金剛砂と同じように磨くには数倍の労力を要するものである。作業の始めにカーボランダムを使うのは著しく労力を節約するが、仕上げの最後は粒が粗くても、粒の揃った金剛砂に限る。最後がカーボランダムではよほどの労力を費やさない限り、金剛砂のものより光沢が悪い。
鏡 形
鏡の表面もなるべく欠点の少ないものがよい。筆者の経験によると同じ放物線鏡といっても、自作及び他者の鏡で、全然同じ型の放物線鏡は一つもないものである。これほど理想的なものは作りにくいし、フーコー試験も鋭敏である。言いかえれば全然欠点の無い鏡は望まれない。従って鏡の良否はその実用的の価値をもってしなければならないように思う。鏡面は、修正量の正しい事と平坦なる面が望ましい。端の良い事と、手際よく処理された面も望ましい。
フーコー試験はもともと鏡を作る人が製造中に使うものであって、でき上った鏡にこの厳重な検査を施したところでただちにその鏡がよくなるわけではなく、むしろ欠点を知り得た事によって使う人の心持ちを悪くするものである。筆者は鏡の検査を時々依頼されるが、所有者が鏡を作っている人でなければ、単に実用上の適否を述べるだけである。もしそれが覗いて満足している鏡なら、それについて深く言う必要もあるまい。叉、鏡を作る人も相当作った人のものなれば、実際大真面目になって全力を費やして作ったものであるから、これが実用上良いものであるなれば、通常他者が軽々しく修正すべきものではないだろう。例えば真面目な書家が書いた絵を、下手だからといっても他者が全然修正してしまったら、その人は気持の良い事ではあるまい。もし左様な修正をする暇があったら新しいものを作った方がましである、ただしこれも、責めればよい営業家の作った与太ものは例外である。
鏡は元来暗室内の試験道具や、見て楽しむ骨董品でもない。覗きもしない鏡を幾つ作ってもそれはあまり有益な事ではない、実際観測に使って始めてその価値がある。“美しい星を美しく見るために、良い鏡を作る”のが何人にも最も良い方法であると信ずる。完成した鏡を手離すには、作業者は、自分で作れる最艮である事は確信しなければならぬ。しかしそれが、それ以上改良の余地の無いものと信じてはならぬ。玄人と素人の区別ははっきりしておかねばならぬ。鏡を完成した時にはスレードがある鏡の裏面に記した如く、
For light, power, & definition this glass, bears no rival.
という位の確信はあってほしい。Lightは面の美しい研磨を意味し、後の二語は鏡形の完全を意味する。
筆者は1925年最初の満足する鏡を作るまでに約三年を準備に費やした。鏡を沢山作るようになったのも、自分の鏡をというのではなく、ただ反射望遠鏡をいかによく使うかという事にあり、一般の素人諸氏と多少異なった立場にあったので、比較的あせらなかったように思う。
沢山に作った鏡を追憶して見ると、むしろ心苦しい程失敗が多い。自分の忍耐の足りないために何時も不満足な努力の足りないものばかり作っていた。しかし幸い、表面修正ができなかったという事もなく、手をつけたもの全部を洩れなく手離す事はできた。鏡を作るのに種々の方法は講じてみた。しかし結局方法を複雑にするよりも簡単にする方がよい事も知ったのである。
周到なる準備をもって着手し、最短の時間に、最小の労力をもって、短いわずかの整形によって作った鏡が最も良い。なぜかなれば製作の方法の原理は、最も簡軍な自然法則に過ぎないものである。
光学表面のできるのは大部分、自動作用であるから、複維な方法をとらねばならないなれば、それは方法が悪いのである。
自分が反射鏡に深く関係するようになったのは英国のエリソン氏に現在も使用している165ミリ鏡を作って頂いたのが動機であるし、自分の作業の大部分の方針はエリソン氏によっているのである。同氏がThe Amateur’s telescopeを書いたのは約70個の鏡を作ってから書いたとの事であるので、自分もやはりこの時期から書き始めた。この章を終る今には、いつの間にやら自分の作った正規番号のNKM号(Nakamura’s Mirrorの略)が140個近くなってしまった。筆者は作る事よりも、使う方が本職でもあるし、製作法を扱うにも眼視鏡を目標として来たつもりである。しばらくの間であったが自分の特殊な立場からむしろ小さな、労力は少いが最もやりにくい小口径の長焦点のものばかり作ったのである。鏡の面もある程度まで進んだように思うが、自分の気短じかな粗暴な性質のために今では行詰ったように思っている。しかし100号以後ガラス面の研磨光沢について多少得る所があったようである。やればやるだけ、難しくなってしまったが今後今までに得た知識や、最近研磨器によって大口径製作準備のために数十面磨いて得た経験等から大口径の反射鏡や、対物レンズ等の専門的な天文研究に必要な応用方面に進みたいと思っている。鏡も五個作ればどうやら物になるものができ、二十個作れば多少自信が得られ、五十個作れば整形に大した苦労もせず、百個作ればどうやら粒が揃ってくるようであるが、作るものの性分は一生鏡の面や傷につきまとうらしい。
今まで筆者のとった重要な方針の一つは比較的小さな反射望遠鏡の普及にあったのであるが、これは確かに普及した、比較的若い熱心家が多くてしかも外人に比し身長の短い人が多い日本内地では、10ないし13センチの小口径のものがよかろうと思ったのであるが、小さいだけ安いので作り得る人も、求め得る人も割合が多くなったし、二三年前まで誰も問題にしなかつた8センチ程度のものさえ今ではほしい人がたくさんにできて来た。さて
自分の作った8ないし13センチのものでは、持った人から見える程度について直接不足は聞かず、これに反して15センチ以上のものを持った人は割合に不熱心な人が多い。大き過ぎて困るから小さなものと換えたいという希望の人が稀らしくない。反射望遠鏡の、普及しつつある幼年期にある日本内地では小さなものから進むのが順序のようであるし、自分にとっても、大きなものよりも良いものが作りにくい小口径のものの方が自分の作業の演練上有用であった。自分には今でも、10センチ以上のものよりも7ないし9センチの小さな鏡の方がはるかに鬼門であって、小口径鏡の最後の真に間髪を争う仕事や、その結果を確かめる星像を見る事は自分にとって平凡な15センチ級のものより面白い。
反射鏡に関する章は主として、ページ数の制限と筆者の無知のために、充分なものではなかったが、一通り自分の考は述べた。今までやかましい事を書いた所もあるが、筆者がそのように作れるというのではなく、ただ自分の失敗の跡や、あるいは現に犯しつつある所を参考までに並べたのである。自作鏡が?個になるまでに何年かかるかも知れないが、その時には考えも変わる事であろうから、それまで凹面鏡に関したかような記事はなるべく遠慮したい。
反射鏡製作に関する基本的な事は未だ書足りない事もありますがひとまず打切って、数か月後から再開致します。この記事は程度並びに範囲について欧米にも例の無いものでありますが、幸いかなり多数の別刷がとってありますから本文十七回及び他の二回分と合計十九回分を、一まとめに御頒ち致します。
約170頁 一組一円六十八銭(内送料十八銭)
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いかがでしたでしょうか?
中村要による反射鏡は現存しているものもあるようで、たとえばTANKOさんのブログでは望遠鏡博物館にてスカイウオッチャーの15㎝ドブソニアンの鏡を中村鏡に換装してあるものが紹介されています。
また、入手した西村の15㎝反経に中村鏡が装着されており、再メッキから始まって現役の望遠鏡として稼働している模様が「中村要とクック25cm屈折望遠鏡」でも紹介されています。
このように、実際に道具として使用することこそ、まさに中村師の意を汲んでいると言え、本当に素晴らしいことだと思います。
恒例の、最も心に残った中村師の言葉を本文中から抜き出します。
フーコー試験はもともと鏡を作る人が製造中に使うものであって、でき上った鏡にこの厳重な検査を施したところでただちにその鏡がよくなるわけではなく、むしろ欠点を知り得た事によって使う人の心持ちを悪くするものである。(中略)鏡は元来暗室内の試験道具や、見て楽しむ骨董品でもない。覗きもしない鏡を幾つ作ってもそれはあまり有益な事ではない、実際観測に使って始めてその価値がある。“美しい星を美しく見るために、良い鏡を作る”のが何人にも最も良い方法であると信ずる。
製作者である以前に熱心な観測者であった中村師ならではの重みのある言葉です。鏡の精度云々に走ることもありがちな、90年後の我々天文アマチュアの動向を見透かしたような内容で身の引き締まる思いですね。

(磨き作業中の15㎝反射鏡 シベット作)
さて、今回も著作権には抵触しないと思っておりますが、「京都大学紅」関係の方等、問題があると感じた場合はご一報ください。ただちに削除したいと思います。また、解釈上の間違い等ありましたらお知らせくださればうれしいです!
コメント
コメント一覧 (12)
uwakinabokura
が
しました
> 持った人から見える程度について直接不足は聞かず、
> これに反して15センチ以上のものを持った人は割合に不熱心な人が多い。
>
> 大き過ぎて困るから小さなものと換えたいという希望の人が稀らしくない。
100年近く前も、気流+温度順応で苦労した事が推測されます。
(取り廻しも大変ですし・・)
純ニュートン・13cm F6~8、前後がベターな気がします。
uwakinabokura
が
しました
4面ほど剥離しましたが面艶は問題ありませんので、お申しつけください。
uwakinabokura
が
しました
uwakinabokura
が
しました
そのためには、大量発注するか自社でファインアニーリングを行うしかないと現時点では判断しており、炉を製作しているところです。(メニスカスミラーも視野に入れています)
たぶんですよ、鏡材入手ルートが狭くなってきているので鏡材提供は有かなと思います。
研磨剤の小分けは他でも入手可能なので無しかな、f3mirrorしかない的な付加価値のある分野を狙っています。
uwakinabokura
が
しました